運命のボタン: 「ナースコールを押さなかったら、今はなかった」というあなたの言葉を象徴する、最も重要な瞬間を切り取ります。病院の無機質で冷たい空気感と、救いの象徴である「光」を対比させ、命の危うさを表現します。

救急車で隣町の病院に運ばれ、到着するとすぐにさまざまな処置が始まりました。
医師からはこう告げられました。

「この状態だと、何度も電気ショックをかけなければなりません。
心臓ペースメーカーを入れましょう。」

私はそのままカテーテル室へ移送されることになりました。

移動中、急に気分が悪くなり、吐いてしまいました。
そのまま意識を失ってしまいました。


目を覚ますとICUだった

目が覚めたとき、首から体外式の心臓ペースメーカのリードが刺さり、簡易処置を施してありました。

私はICUにいました。

そばには母親がいてくれました。

私は思わず言いました。

「母さん、ごめん……」

大変なことになってしまった申し訳なさと、
これからどうなるのか分からない不安で、
なぜか謝っていました。

不思議なことに、その時の私は気分が良く、たくさん話していた記憶があります。
生きていることへの安心感と、緊張がほどけた反動だったのかもしれません。

数日後、HCUへ移されました。


告げられた病状

主治医から説明を受けました。

「心筋炎であることは間違いありません。
炎症のスピードは中の上です。
原因は今、詳しく調べています。」

そして、こう言われました。

「カテーテルで詳しく検査しましょう。心臓の検査のフルコースです。」


心臓検査のフルコース

検査当日、私は検査室へ運ばれました。
足の付け根から動脈に管を入れる検査でした。

検査は次々と進み、最後は心筋を摘み取る心筋生検

「お疲れ様でした」

そう言われ、病室へ戻りました。

遅めの昼食が用意されていましたが、胸のあたりが痛く、息苦しくて、とても食べられませんでした。
バナナを少し口に入れ、苦しさを我慢していました。

しかし、あまりにも苦しくなり、ナースコールを押しました。


異変

看護師さんが来て、
「先生に伝えますね」
と言って部屋を出ていきました。

しばらくすると先生が入ってきて、聴診器で胸の音を聞き、体温と血圧を測りました。

すると突然、慌ただしくなりました。

先生「カテ室、開いてる?」

看護師「予約してません。」

先生「それどころじゃない!」

ベッドはそのまま動かされ、私は再びカテーテル室へ運ばれました。
処置が行われ、そのままICUへ。


診断は「心タンポナーデ」

私は心タンポナーデでした。

心筋生検の際、心臓に小さな穴が開き、そこから出血。
血液が心臓の周りに溜まり、心臓がうまく動けなくなっていたのです。

再びHCUへ戻ったとき、胸にはカテーテルが刺さったままで、
パックには血液が溜まっていました。

それを見て、私は思いました。

「これが溜まって、心臓が止まりかけていたんだ。
早く見つけてくれて、本当によかった…」


命は紙一重だった

もし、あの苦しさを我慢してナースコールを押さなかったら。
もし、先生の判断が少し遅れていたら。

今、こうして文章を書く私は、ここにはいなかったかもしれません。

検査の先に、もう一つの命の危機が待っていました。

この時、私はまだ知りませんでした。
この先に、さらに長く厳しい闘病生活が続くことを。

それでもこの日、私は確かにもう一度、生き延びました。

By wwbnq181

50代。25年間、地元の企業で働き抜きました。 私の人生の後半戦は、想像を絶する病との戦いでもありました。 原因不明の難病「巨細胞性心筋炎」の発症。 不整脈を抑えるCRT-Dの植込み。 そして、心臓移植を待機する6年半(2300日)、補助人工心臓(VAD)と共に生きる日々。 その間、脳梗塞や小腸穿孔といった合併症にも襲われ、何度も命の瀬戸際を歩きました。 しかし、そこには常に私を支えてくれた妻と息子の存在があり、 私のために緊急時講習を受けてまで居場所を守ってくれた9人の同僚たちがいました。 心臓移植という奇跡に恵まれ、今、私の胸には新しい鼓動が刻まれています。 「頂いた命と共に、二人分の人生を最高にしたい」 そんな想いから、25年勤めた会社を卒業し、第2の人生を歩み始めました。 趣味は、一人の足音を感じながら歩く二時間の散歩。 このブログでは、闘病の記録、家族への想い、そして何気ない日常の尊さを綴ります。 私の経験が、今を懸命に生きる誰かの力になれば幸いです。

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